目次
アルバム解説
概要
2019年5月にリリースされたTyler, The Creatorの5作目のスタジオアルバム『IGOR』は、彼をゼロ年代のインターネット発の異端児から、2010年代以降のポピュラー音楽界を牽引する「現代の巨匠(マエストロ)」へと完全に決定づけた歴史的傑作である。前作『Flower Boy』で見せた洗練されたサウンドスケープと自己開示をさらに推し進めた本作は、一人の男性に恋をし、三角関係の末に失恋し、そして受容するまでを描いたコンセプチュアルなラブ・ストーリーとなっている。全曲の作詞、作曲、プロデュース、さらにはアレンジまでをタイラー単独で手掛け、カニエ・ウェスト、ソランジュ、プレイボーイ・カルティ、リル・ウージー・ヴァートといった超豪華なゲスト陣が参加しているにもかかわらず、そのクレジットは意図的に伏せられている。これは、ゲストのスター性ではなく、アルバム全体の統一されたナラティブ(物語)と彼自身の感情の起伏にリスナーの焦点を絞るためだ。第62回グラミー賞で最優秀ラップ・アルバム賞を受賞した本作だが、そのサウンドはラップの枠を軽々と飛び越え、ネオソウル、ファンク、R&B、1980年代のシンセポップを独自の手法で再構築した、全く新しいジャンルレスな到達点である。
コアテーマと考察
「イゴール」というペルソナと愛の醜悪さ
アルバムタイトルであり、本作におけるタイラーのオルター・エゴ(別人格)である「イゴール(IGOR)」とは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』などに登場するマッドサイエンティストの従順で醜い助手の名前である。恋に落ち、相手に狂信的に尽くし、やがて嫉妬と執着で理性を失っていく本作のタイラーは、まさに愛という狂気によって生み出された「モンスターの助手」だ。「NEW MAGIC WAND」や「WHAT’S GOOD」で見られる暴力的なベースラインや荒々しいシャウトは、洗練された「Flower Boy」の裏側で蠢く、人間の醜悪で利己的なエゴの爆発を表現している。論理や理性が通用しない恋の病に冒されたとき、人は誰しも「イゴール」になり得るという普遍的な真理を、彼は不気味な金髪のおかっぱ頭とサングラスというアイコニックなビジュアルと共に提示したのだ。
ジェンダーの境界を融解させる「クィア・ラブストーリー」と所有欲
本作の核心には、女性の恋人がいる男性を愛してしまったタイラーの、激しい葛藤とジェラシーがある。「A BOY IS A GUN*」において、彼は愛する対象(Boy)を危険で魅力的な「銃」に例え、同性愛というコンテクストを超えた生々しい「所有欲」を露わにする。相手の女性に対して「新しい魔法の杖(NEW MAGIC WAND)で彼女を消し去ってしまいたい」と願う狂気的な願望は、有害なほどの独占欲の表れである。しかし、タイラーはそうしたドロドロとした感情を、甘くメロウなコード進行や、意図的にピッチシフトされた中性的なボーカルワークによって、ジェンダーの境界が溶け合った美しいポップ・アートへと昇華している。ここで描かれるのは、「男と男の恋」という枠組みを超えた、あまりにも人間的で無防備な魂の衝突である。
喪失の受容と「悲哀の5段階」のサウンドトラック
コメディアンのジェロッド・カーマイケルによる印象的なナレーション(「Exactly what you run from you end up chasing」など)に導かれながら、本作は心理学における「悲哀の5段階(否認・怒り・取引・抑うつ・受容)」を完璧なサウンドトラックとしてなぞっていく。「EARFQUAKE」や「I THINK」での熱病のような恋の始まりから、「PUPPET」での自己喪失と取引、「NEW MAGIC WAND」での怒りを経て、物語は「GONE, GONE / THANK YOU」でついに痛みを伴う「受容(別れ)」へと辿り着く。しかし、アルバムは単なるハッピーエンドや完全な吹っ切れでは終わらない。最終トラック「ARE WE STILL FRIENDS?(俺たち、まだ友達でいられるかな?)」において、アル・グリーンのサンプリングに乗せて切実に歌われるこの問いかけには、明確な答えが提示されないまま、ブツリと音が途切れてアルバムは幕を閉じる。この未解決の余韻こそが、失恋というものが持つリアルな手触りそのものである。
総評
『IGOR』は、タイラー・ザ・クリエイターのキャリアにおいてのみならず、2010年代のポピュラー音楽史における「分水嶺」として永遠に語り継がれるべき作品である。グラミー賞受賞時のスピーチで、彼自身が「ブラック・アーティストの枠組みとして『アーバン』や『ラップ』という言葉が使われることへの違和感」を表明したように、本作は既存のヒップホップの文脈だけで評価されるべきではない。これは、ファンクやソウルの偉大な先人たちの血脈を受け継ぎながら、現代的な孤独とクィアネスを圧倒的な音響構築で描き出した、究極のブロークン・ハート・アルバム(失恋作)である。かつての「反逆のスケーターキッズ」は、その計り知れない痛みを糧にして、時代を象徴する真の天才へと羽化したのである。
トラック和訳
1. IGOR’S THEME
2. EARFQUAKE
3. I THINK
4. EXACTLY WHAT YOU RUN FROM YOU END UP CHASING
5. RUNNING OUT OF TIME
6. NEW MAGIC WAND
7. A BOY IS A GUN*
8. PUPPET
9. WHAT’S GOOD
10. GONE, GONE / THANK YOU
11. I DON’T LOVE YOU ANYMORE
12. ARE WE STILL FRIENDS?
