目次
アルバム解説
概要
2011年5月、世界のヒップホップ・シーン、いやポップカルチャー全体がひとつの特異点に直面した。ロサンゼルスのスケートボードキッズと音楽オタクの不良集団「Odd Future(OFWGKTA)」のリーダー、Tyler, The Creatorによる2ndアルバムにしてメジャー・デビュー作『Goblin』のリリースである。当時まだ10代だったタイラーが自室のPCで構築した本作は、前作『Bastard』(2009年)から続く、架空のセラピスト「Dr. TC」との対話というコンセプチュアルな形式を引き継いでいる。先行シングル「Yonkers」のミュージックビデオで、ゴキブリを食いちぎり、自ら首を吊るという衝撃的な映像をドロップした彼は、瞬く間にインターネット時代の新たなロックスターへと押し上げられた。西海岸のギャングスタ・ラップとも、東海岸のブーンバップとも、当時のメインストリームであった煌びやかなクラブ・チューンとも全く異なる、歪んだシンセサイザーと極端にダウナーなベースライン、そして過激なリリック。本作は、突然の狂騒的な名声に対する戸惑いと、行き場のない10代の攻撃性が奇跡的なバランスでパッケージされた、2010年代初頭のユースカルチャーを象徴する金字塔である。
コアテーマと考察
架空のセラピストと分裂する自己(Dr. TCとオルター・エゴ)
本作の最も重要な構造は、タイラー自身の精神のメタファーである架空のセラピスト「Dr. TC(Tyler's Conscience=タイラーの良心)」との対話である。アルバムを通じて、タイラーはDr. TCに向かって己の闇を吐き出し続ける。さらに、彼の中には「Wolf Haley」(無軌道で破壊的な自己)や「Tron Cat」(最も残酷でタブーを持たないサイコパス的な自己)といった複数のオルター・エゴ(別人格)が同居しており、これらが曲ごとに主導権を奪い合う。これは単なるギミックではなく、急速に拡大する名声へのプレッシャー、アンチヘイターへの怒り、そして本来の「オタクでスケーターのタイラー」としての自己同一性が崩壊していく過程の痛々しいドキュメントである。リスナーは彼の脳内で行われるセラピー・セッションの傍観者となり、彼の精神の分裂と対峙させられることになる。
不在の父親と剥き出しのメンタルヘルス
メディアはこぞって本作のホモフォビア的、ミソジニー的な過激なワードチョイスを取り上げ非難したが、その刃の向かう本当の先は「タイラー自身」と「彼を捨てた父親」である。トラックの随所で、彼は一度も会ったことのない父親への強烈な憎悪と、裏返しとしての渇望を吐露している。過激な暴力描写やショック・バリューに満ちた言葉の裏には、深刻な見捨てられ不安や孤独感、そして若き日のうつ病が横たわっているのだ。「Nightmare」や表題曲「Goblin」で見せる彼の脆弱さは、当時の同世代の若者たちが抱えていた名状しがたい疎外感やニヒリズムと強烈にリンクした。彼は自身のトラウマを、最も悪趣味で、同時に最も芸術的な方法で自己治療しようとしていたのである。
「ホラーコア」のレッテルへの拒絶とDIYカウンターカルチャー
リリース当時、多くの批評家は本作をエミネムの初期作などと比較し「ホラーコア」の文脈で語ろうとした。しかし、タイラーは「Sandwitches」などの楽曲で明確にそのレッテルを拒絶している。彼が描いたのは架空のホラー映画ではなく、LAの郊外で退屈を持て余すティーンエイジャーの現実の延長線上にある妄想だからだ。ファレル・ウィリアムスやN.E.R.Dのコード進行に影響を受けた奇妙に美しいジャズの要素と、Neptunesライクなドラムパターン、そしてチープなソフトウェア・シンセが混然一体となった本作のビートは、すべて彼自身の手によるものだ。業界のルールや大人のプロデューサーを一切排除し、仲間たち(Odd Future)とDIYで作り上げたこのアルバムは、インターネット以降のインディペンデントな音楽制作における究極のパンク・ステートメントであり、後のヒップホップ界における「ベッドルーム・プロデューサー」の台頭を決定づけた。
総評
『Goblin』は、決して行儀の良いアルバムではない。不快で、暴力的で、矛盾に満ちている。しかし、だからこそこの作品は本物であった。タイラー・ザ・クリエイターは、本作を通じて「メインストリームの価値観に適合できない者たちの代弁者」となり、ヒップホップというジャンルの美学を決定的に押し広げた。のちの『IGOR』などで見せる洗練された音楽家としての彼の原点は、この荒削りで血まみれなキャンバスの上に確かに存在している。ビリー・アイリッシュからブロックハンプトンに至るまで、後のオルタナティヴなポップスターやヒップホップ・アクトが本作から受けた影響は計り知れない。音楽史において、10代の痛みがこれほどまでに生々しく、かつカルチャーをひっくり返すほどのエネルギーを持って記録された作品は稀である。
トラック和訳
1. Goblin
2. Yonkers
3. Radicals
4. She
5. Transylvania
6. Nightmare
7. Tron Cat
8. Her
9. Sandwitches
10. Fish / Boppin’ Bitch
11. Analog
12. Bitch Suck Dick
13. Window
14. AU79
15. Golden
