目次
アルバム解説
概要
2018年夏、Kanye Westはワイオミング州のジャクソンホールに身を隠し、前代未聞の「5週連続プロデュース作リリース」という狂気的なプロジェクト(Wyoming Sessions)を敢行した。その中核を成す自身の8作目『ye』は、彼のキャリアにおいて最も物議を醸した時期に産み落とされた。当時、彼はトランプ大統領支持の表明や、TMZでの「奴隷制は400年続いたというが、それは選択だったように聞こえる」という発言により、世間から猛烈な非難とバッシングを浴びていた。当初『Love Everyone』というタイトルで完成間近だったアルバムは、この騒動の直後に完全に破棄され、わずか数週間で本作『ye』へと作り直された。全7曲、約23分という極端に短いランニングタイムは、SNS時代におけるアテンション・エコノミーへの適応であると同時に、双極性障害(バイポーラ)の診断を受けた彼の「今、この瞬間の精神状態」をフィルターなしで切り取った、生々しいポラロイド写真のような作品である。
コアテーマと考察
双極性障害(バイポーラ)という「スーパーパワー」と自己破壊衝動
アルバムのアートワーク(彼自身がiPhoneで撮影したワイオミングの山々)に殴り書きされた「I hate being Bi-Polar its awesome(双極性障害は最悪だ、最高だけど)」という文句が、本作のすべてを物語っている。オープニングの「I Thought About Killing You」で、Kanyeは「自分自身を殺すことを考えたし、お前を殺すことも考えた」と、恐ろしいほど静かに、そして美しく語りかける。これはGeniusのコミュニティでも「侵入思考(Intrusive thoughts)」の生々しい描写として高く評価された。「Yikes」では自らの精神状態の危うさをドラッグ問題と絡めて吐露しつつも、アウトロで「これは障害じゃない、スーパーパワーだ」と絶叫する。自身の病を呪いながらも、それが自らの狂気的なクリエイティビティの源泉であるという残酷な真実を、彼はこのアルバムで完全に受容しているのである。
キャンセル・カルチャーの中心で問う「家族」と「忠誠」
社会的抹殺(キャンセル)の危機に瀕していた彼にとって、最後の防波堤となったのが「家族」の存在であった。「Wouldn’t Leave」は、彼の暴言によって全財産やキャリアを失うかもしれない恐怖に直面しながらも、決して彼を見捨てなかった当時の妻・Kim Kardashianに対する不器用な感謝の歌である。彼のエゴイズムの裏にある、見捨てられることへの恐怖と、それでも無条件の愛を求める姿は痛々しいほど人間的だ。また、「No Mistakes」ではDrakeとのビーフや世間のバッシングに対して「俺はまだ倒れていない」と牙を剥きながらも、サウンドはSlick RickやThe Edwin Hawkins Singersをサンプリングした往年のソウルフルなKanyeを彷彿とさせ、彼の根底にある音楽的ルーツへの回帰と心の平穏を求めるアンビバレンスを示している。
父性の目覚めと精神の解放(「Ghost Town」から「Violent Crimes」へ)
本作のハイライトであり、2010年代のKanyeの最高傑作の一つと称される「Ghost Town」では、PARTYNEXTDOOR、Kid Cudi、そして当時無名だった070 Shakeが、精神の麻痺と「何も感じないことの自由」を大合唱する。痛みの果てに辿り着いたこのカタルシスから、アルバムは最終曲「Violent Crimes」へと接続される。ここで彼は「娘を持ったことで、女性を獲物ではなく守るべき存在として見るようになった」と告白する。過去のミソジニー(女性嫌悪)的な自己を恥じ、迫り来る外界の暴力から娘たち(NorthとChicago)を守りたいと願う父親としての切実な祈りは、かつての「神」を自称した男の最も無防備な姿であり、聴く者の胸を強く打つ。Redditでも、この曲の背後にある世代間のトラウマと父性の葛藤は深い議論を呼んだ。
総評
『ye』は、『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』のような完璧に計算された芸術作品でも、『Yeezus』のような革新的な音の壁でもない。それは、傷つき、混乱し、それでも呼吸を続けるKanye Westという一人の人間の「ボイスメモ」のようなアルバムだ。しかし、この粗削りで未完成な手触りこそが、メンタルヘルスという現代社会の重要なテーマをポピュラー音楽の中心へと引きずり出し、ヒップホップにおける自己開示のハードルをさらに下げたと言える。彼のディスコグラフィの中で最も短く、最も地味な作品かもしれないが、その脆さと透明度は他のどのアルバムよりも高い。アーティストの魂の深淵を覗き込むような、ヒップホップ史に残る極めて私的で重要なドキュメントである。
トラック和訳
1. I Thought About Killing You
2. Yikes
3. All Mine
4. Wouldn’t Leave
5. No Mistakes
6. Ghost Town
7. Violent Crimes
